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ならぬことはならぬものです。【指導者が持つべき覚悟】
「什(じゅう)の掟」というものをご存じだろうか。
会津藩士のこども(9歳以下の男子)が町ごとに十人ほどのグループをつくり、会津藩士としての心構えを身につけるための集団があった。
これを「什(じゅう)」と呼んだ。
什長(什のリーダー)が小さなこどもたちに言って聴かせる話があったそうだ。
一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです。
たしかに大事だなと思うものもあれば、時代にそぐわないものもあろう。
ただ、私がはじめて什の掟を見たとき、いちばん印象に残った言葉は最後の「ならぬことはならぬものです。」という一文だ。
理屈など抜きにしてダメなものはダメ。
そういう一文だ。
小さなこどもたちに伝える言葉として、とても厳しいものだと思うし、ともすれば理不尽なことを言っているように聞こえるかもしれない。
取り扱い方を一歩間違えれば危ない、そんな言葉にも聞こえる。
教育、あるいは人を育てる上での価値観や手法はこの数十年で大きく様変わりしたと思う。
たとえば私が幼少のときは母親に長い物差しでお尻をひっぱたかれたこともあるし、夜の寒空の下、ベランダに放り出されて家を閉め出されたこともある(ちなみになぜそんなことになったのか、原因はまったく覚えていない。おそらく何かしらの悪さをしたか、よっぽど聞き分けがなかったのだろうか。今度聞いてみたいと思う笑)。
もちろん人を教え育てていく上で暴力という手段を用いることに対して、私は反対だ。
教える側は、丁寧に言葉を紡ぎ、教え諭すこと、そして傾聴や対話を通じて、正しい在り方、正しい考え方を粘り強く伝えていくことが望ましいと思う。
しかし、なかなかそういうやりとりだけで伝わりきらないことがあるのもまた事実だと思う。
そういうときに教え導く側が「ならぬことはならぬものです。」という「覚悟」を持っていることは大事なことだと思う。
自由、自主性、自己責任。
個の考えや価値観が尊重される時代。
もちろんそれはとても大切なことだし、歓迎されるべきことだと思う。
一方で、なんでもよいか、どんなことでも認められるかと言われるとそういうわけではない。
やはり人として大切なこと、社会で生きて上で身につけておくべきこと、自分の人生をより豊かにするために積み重ねておくべきことは厳然として存在するのだ。
教育の一端を担う自分としては、塾生たちの成長や幸せを望んでいるからこそ、彼らが自主性や個性をおおいに育むための手助けをしたいと思いつつも、同時に心のどこかに「ならぬことはならぬものです。」という考えも持っていたいと考えている。
この記事を書いた人
進学塾unitの塾長。数学・英語・理科担当。生徒と保護者、スタッフの笑顔を見るために日々邁進中。基本的にいつも機嫌が良く、無駄に元気。
趣味:将棋(将棋ウォーズ1級)、コーヒーを飲みながらカフェで数学、ダイエット 特技:リバウンド
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Twitterはこちら R_makes_rb
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